日本での始まり
日本にガールガイド運動を伝えたのは、1919年、東京の香蘭女学校に教師として赴任したイギリスの宣教師、ミュリエル・グリーンストリートMuriel Green streetです。イギリス連盟の一支部として香蘭女学校に日本女子補導団東京第1組を設立し、イギリスのガールガイドと同じ「やくそく」と「おきて」を唱え、同連盟のハンドブックと、会員ピンを使用していました。
日本のガイド運動は1923年に独立しました。最初は女学校にガイド部門がおかれましたが、その後小学校にも広がり、少女団(ブラウニー団)も設立されました。
日本女子補導団は日本国内だけでなく、当時日本の統治下にあった中国の東北部にも拡がり、大連、長春にも団ができました。ガールガイド・ガールスカウト世界連盟の創設が決まったとき日本は26ヶ国の創立会員の一国となりました。(日本女子補導団は1928年から1939年まで世界連盟に加盟しました。)
しかしながら、1942年の戦時中に日本女子補導団は解散しました。
ボーイスカウトは戦後(1945年)の荒廃する世の中に国際的なスカウト運動が必要であると判断し、連合軍司令部(GHQ)と接触し、ボーイスカウトの再開をはかりました。GHQからガールスカウト運動の再開もすすめられ、1947年GHQ民間情報局(CIE)少年教育顧問ミスター・ダーギン(Mr. Russel L. Durgin)の援助によってガールスカウト中央準備委員会が発足し、再建がすすめられていきました。
1948年、世界連盟からの資金援助の手がさしのべられ、アメリカ連盟からミス・マルグリート テュウイ( Miss.
Margueite Twohy)が世界連盟のトレイナーとして来日しました。日本の青少年関係の有志を対象として開かれた文部省主催の講習会に講師として出席し、その後全国を廻って、広く社会の理解と協力が大切なことを力説し、この方面の開拓にも力を入れ、滞日6ヶ月間に、組織の基礎づくり、広報の面などにも大きな足跡を残されました。
1949年4月4日、ミス テュウイの滞日中に、第1回全国総会が東京の丸ノ内で開催され、長距離列車に乗るにも許可がいる時代に全国18県から125名が集まり、ここにガールスカウト日本連盟が成立し、この時すでに2,663名の会員が登録されていました。
このように戦後の運動は GHQの下で再興したため、名称はガールスカウトとなり、プログラム(計画・予定表)内容も当初アメリカの影響が大きかったのです。その後日本の会員の手によって日本の少女に適したものに次第に変わっていきました。そして、1952年8月ノルウェーで開催された第14回世界会議で日本は準加盟を承認されました。1960年5月ギリシャでの第17回世界会議で満場一致でついに正加盟が可決され、正式に世界の仲間入りを果たしたのです。 |